大光寺
 
占い・お祓い・鑑定について
大光寺 金先生について
お祈り 儀式の日
大光寺 幸せになる道
大光寺の光
大光寺の歴史
体験談
大光寺特別ページ 霊感の道
ギャラリー
kekkon
記事・メディア
修行
神秘な世界 現れた魂たち
悟りの船 八萬大蔵経
神妙章句
得度式
ブログ
アクセス
リンク
 

●消えない生命 (2009.11.11) 

五蘊(ごうん)はお釈迦様が説法された人間論であり、生命論です。

五蘊の中の一つで 「識蘊(しきうん)」としての「アラヤ識(阿頼耶識)」は八種類の識で成り立つ識蘊の八番目の識です。私たちが普段たくさん使う「意識」と言う用語も本来仏教の有識説から出たのです。
八識の六番目の識、六識を説明すると、近代心理学が最近になって見つけた「無意識」を仏教ではもうずいぶん前から把握していたのです。
したがって仏教を別の名前で呼ぶならば「深層心理学」とも呼ぶことができるはずです。

八識は大きく「前五識(眼、耳、鼻、舌、身)」と「後三識(意識、マナ(末那)識、アラヤ(阿頼耶)識)」に分けることができます。
前五識を通して入って来た事や物などの外界の情報を総合処理する所が六識の「意識」です。
そして意識は七識である「マナ識」によって「わたし」に執着し「わたし」を中心として「わたし」に有益なのか、有益ではないのかを判断して処理するようになっています。

また私たちが「心」と言う時、六識である意識がマナ識によって前五識に通じており、外部から入って来た情報により現われる多様な感じや感情までを含んだもののことだと言えます。
それで私たちの心は随時、入力される外部情報によって「随時」変わっていくようになるのです。
それに私たちは感じることができないのですが八識であるアラヤ識からも意識とマナ識が影響を与え合うので「心」というものはそれこそ複雑な現象と言えるのです。

有名な心理学者であるカール・ユングはいわゆる「集団無意識」と言うのですが、これが「アラヤ識」と似ていると言う人々もいます。ユングは「自我(ego、わたし)」と「自己(self)」を区別したのです。
「自我」すなわちegoはマナ識によって支配されて執着する「エゴイスティックなわたし」を意味し、「自己」は人間の内面の深い所にある「普遍的なわたし」を意味すると思えば良いでしょう。

 

ある日、カール・ユングが講演会で講演を終えるやいなや聴衆の中の一人がカール・ユングに質問をしました。
「自己と言うのは何でしょうか?」
するとユングはとても簡単な言葉で返事をしました。
「自己と言うのは、あなたたち皆なのです。」
仏教の「一即多 多即一(一つは全てであり、全ては一つである)」の概念とも一致すると見ることができるでしょう。

アラヤ識の「アラヤ」と言う言葉は梵語の「アラヤ」から来た言葉なのですが、通常「貯蔵する」と言う意味で受けとられています。アラヤ識はたまに「蔵識」とも呼ばれています。
何を貯蔵するのかといえば、私たちが人生で経験するすべての事柄、すなわち身で、口で、心(意)でつくる全ての業(行為または種子)が自動でアラヤ識に貯蔵されるのです。

八識はこのように前五識と後三識がお互いに影響をし合いながら成り立ち、それぞれの識は肉体の各機関に根を置いているのです。前五識は目、耳、鼻、舌、身に根を置いているし、マナ識は身体のすべての場所が根なのです。そしてこの身を「わたし」と執着するようになるでしょう。しかしアラヤ識は特別な身体のどの部位にも根を置いてはいないのです。

通常、種子(業、行為)がアラヤ識で「薫習(くんじゅう)された」と表現するのですが、これは香が身にしみこむように身や身の周囲に香りがしみるもののようにアラヤ識もこのような肉体とその周辺に薫習されると言うのです。
したがって肉体が死んで消えれば八識の中で肉体に根を置いている前五識と意識、マナ識は消えてしまうのですが、アラヤ識だけは消えないで肉体が生きている時に行った種子たち(業、行為、情報)だけをそっくりそのまま書き加えたままに、さらに他の縁が和合して他の身を受けるまで平穏な状態でいられるのです。

とにかくアラヤ識は肉体が死んだ後に残ってとどまるようになるのですが、それでも何か特別な場所や空間上に存在するものではないのです。死ぬ前の物理的な肉体は視空間の制約を受けますが、アラヤ識は視空間の制約を受けないからです。したがって今こちらにあることもできて、同時に他の特定の所に存在することもできるようになるのです。

私たちが輪廻することも生きた時につくる三業(身口意)が因となってまた他の縁をつなぐようになるからです。
したがって輪廻する主体は「わたし」ではなく「業(行為、種子、情報)」です。縁起法によって縁で身を授かった生命が授かった身をマナ識によって「わたし」と執着するために輪廻する主体も「わたし」だと思うことなのです。

 

●アラヤ識

有識学を構成する主要事項の中でアラヤ識があります。実は有識学とはこのアラヤ識を求心力の中心となる点として集約されたと言われるほどです。
アラヤは梵語で「永遠に存在しながら消えない」、「貯蔵する」という意味なのです。一時的に現在あるのではなく過去前世にもあり、未来来世にもあるこのアラヤは、ずっと存在すると考えられるものであり、生命の根本生命であり、生と死を輪廻する主体である識体、すなわち魂であるのです。

このアラヤ識によってアラヤ識の中の種子が移り変わって生じたものが「マナ識(意)」であり、このマナ識により派生したのが意識です。
有識学ではアラヤ識を第八識、マナ識を第七識、意識を第六識だと区分して説明します。また 八、七、六識を心、意、識で区分したりします。

アラヤ識は海水のようであり、その他のあらゆる識は海水で起きる多様な波と一緒にアラヤ識の海の上で 七識、六識のすべての識が生じるのです。
第六識と第七識は考え、推し量ること(思量)を速成させ、第六識は間に間断があり、第七識は間断がないのです。第五識と第八識は思量する速成がないが、第五識は間断があり、第八識は間断がないのです。
特に第八識、すなわちアラヤ識は活動が継続し、切れる事がないので、身を変えて他の生死を授かるようになる時までも間断がないのです。
人の死ぬ時は意識が全部止まり、第七識は作用することはないのですが、第八アラヤ識だけは生命を終えるまで残っていて、生命が終わる時、すなわち輪廻する時の最後まで残ってついて行きます。
また人がもう一度、身を変えて現れる時に第六意識や第七識は作用せずに、第八アラヤ識は一番先に入って来て、その生命の主人になるのです。
第八アラヤ識はとても微細で難解であるために通常の心識としては知覚することができないのです。それで第七識の作用が止まり、第八識だけ残るようになれば生命は無意識へ抜けてしまうようになります。生命は第八識を知覚することができないので無意識になってしまうのです。

 

修行を通じて意識が覚醒されて第八識を知覚することができる人を八地菩薩と言います。八地菩薩は生死の段階でも終わることがない第八識をいつも知覚するので生死を解脱させることになるのです。
もちろん八地菩薩の生死解脱は有余涅槃であり、仏地に至ればこそ初めて無余涅槃に入るようになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
ページの一番上へ
Copyright © Daikouji. All Rights Reserved.
大光寺